畑中 ふうさん

校友の誇り

「畑中くん、声えぇやん」
先輩の一言が人生を変えた

ナレーター

畑中 ふうさん

(1983年 経済学部卒)

子どもの頃から、テレビっ子でしたね。大学に入るとさっそく放送局に入部しました。はじめは製作ディレクターをやろうと思っていたのですが、先輩から「畑中くん、声えぇやん、アナウンス室やってみぃひんか」と声をかけられたんです。いま思えばそこで人生が大きく変わりました。僕達の代は個性的なメンバーが集まっていて、ずいぶん龍大の放送局を変えたと思います。

アドリブで話すのが得意なタイプでしたね。アナウンス室に入ったときも、いつもものすごくやりたい、という熱意がなくて、なんとなく流れていくタイプなんですよ。就職する頃になっても特にやりたいことがなくて。いくつか面接にも行ったものの、熱心じゃないので通るわけもなく、まさにモラトリアムな感じでした。そんなときKBS京都にいた先輩が、競輪・競艇・地方競馬をクライアントに持っている大阪の小さな広告会社を紹介してくれるんです。そこに「実況のできる営業」という、わけのわからん職種で入社することになります(笑)。

でもこの仕事は4年できっぱりと辞めてしまいました。それで一回は東京を見とかなあかん、と思って東京に出たんです。はじめはタモリさんの弟子になろうかと思ったのですが、あっさりメゲて。それからはもう紆余曲折です。駅前の本屋で演劇専門雑誌を見て小さな劇団に入ると、その劇団が、なかなか面白い人が集まるところでね。そこでネタを披露したり、オーディションを受けたりしていました。それはそれで楽しかったけれど、あんまりこの生活に慣れてしまうとあかんな、と思って、1年でふんぎりをつけて大阪に帰りました。

大阪に帰ってからは制作会社を手伝ったり、また劇団に入ったりしながら、大手の芸能事務所にやっと落ち着きまして、MCや結婚式の司会を2 年くらいしました。

その頃ラジオCMが絶頂期で、おもしろCMやナンセンスCMが流行っていたんです。その中でキャラクターを設定してしゃべるというのが、僕にはすごくはまったんですね。ディレクターが考えたシナリオをどう“ しゃべり”で面白くするか、考えるのが楽しくてね。ここでは本当にいろいろ勉強させてもらいました。2年経ってフリーになるとき、「オレはナレーションで食っていく」と決めました。

最も思い出深い仕事というと、やっぱり『M-1グランプリ』です。この番組を通して、ABC朝日放送の制作の人達の、芸人さんに対する愛情や敬意というものを教えてもらいました。M-1のラスト、第10回の盛り上がりはすごかったですね。映像に気持ちがぴたっとリンクしながらナレーションを入れるときっていうのは、本当に気持ちがいいものなんです。あとでVTR見たら気持ち入りすぎてるな、と気恥ずかしくなるくらい、とても印象的な仕事でした。

そうやって僕は現場で叩き上げられながら学んできました。いまフリーのナレーターでテレビの仕事で食べてる人は、業界でもごく稀ですね。常に危機感は持っていますが、ナレーターはずっと続けていくつもりです。ただ脱テレビしていこうとは思っていて、既存のメディア、既存のラジオから独立して地域活性、社会貢献活動のためになるラジオをつくりたい。そんな思いでやるラジオってなかなかなかったんじゃないかと思うんですよ。保育園に音声メディアを届けられないか。SNSと連動させたり、イベントを開催したりなんてことも考えながら、今後のライフワークにしたいと思っています。

[広報誌「龍谷」76号より]

畑中 ふう(はたなか・ふう)

1983年、龍谷大学経済学部を卒業。 フリーランスのナレーター・声優・ラジオパーソナリティとして数々の人気番組を担当。 「♪ほねっこ食べて~」で一世を風靡した『ゴン太のほねっこ』シリーズ、『たかじんの胸いっぱい』、『痛快エブリデイ』、『ビーバップ・ハイヒール』、『M-1グランプリ』などのナレーションをはじめ、大阪を中心に、ライブやトークイベントなども精力的におこなう。

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